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2007年7月

2007年7月30日 (月)

エリーザベスとサン・セット

夏のケープ・コッドは日が長い。夕食を終えた8時位のベスト・タイミングに、翌日の天気が良い筈なら、美しい夕日が見れる。多分、ケープ・コッドの、エリーザベスのビック・ハウス暮らしで一番好きな時間だ。ケープ・コッドを去る日の前夜、夕食後に私は庭の向こうのビーチに降りた。透き通った小石の浜辺を踏み進み、岩に腰掛け、太陽がゆらゆらと水平線に降りてくるのを一人で待った。遠くに一艘のセイラー・ボートが見えた。帆をたたみはじめ、ゆっくりとこちらの入り江に向かってくる。波がチャパチャパと静かに足下に寄せてくる。日没まで、まだ少し時間がある。まだ、黄色っぽい光の色が真っ正面から差してきて眩しい。遠くから笑い声が聞こえた。ビッグ・ハウスからだ。きっとみんなテラスに集まって、食後のアイスクリーム・パーティーでもしてるのかも。「チェコ人叔父さん」がまた、おかしな話をしているのかな。ここでこうしているのも、もう最後。来年には手放さなければならないビッグ・ハウスを、私はもう訪れることはないだろう。エリーザベスが毎夏過ごした家が無くなる。と同時に、エリーザベスの思い出も、父や叔父や叔母、従姉達、従姉の子供達の思い出も、ゆっくりと時間をかけて私たちの頭の中から、そのうち消えてしまうんじゃないか。私は、全てを記憶に残そうと、眩しいサン・セットの光の中で、日がどっぷりと暮れるまで辺りを見ていた。(by Anne)

サン・セット

2007年7月28日 (土)

2007.07.28.

saboridayに。
ボーッとしてると、止められない止まらない、
世界一美味しい、
ケープ・コッドのポテトチップス。
(by Anne)


チップス


2007年7月27日 (金)

エリーザベスと泥棒

(昨日のつづき)私たちは、エエッ!とまたもや驚いた。しかし冷静に考えれば別荘地のオフ・シーズンに泥棒の被害にあう話なんて五万と聞くわけで、さほど驚くことでもない筈だが、被害にあったのがエリーザベスのこの家、要するにウチ、だったから大声をあげてしまったのだ。でも、私たちの大きな「エエッ!」を聞いて調子付いた「チェコ人叔父さん」は、話す気満々。急に早口になった。強いチェコなまりの英語でただでさえ聞き取りにくいのに、早口となっては、もう私はお手上げだった。それでもなんとなく分かった部分だけ話すと、こういうことのようだ。オフ・シーズンのケープ・コッド。地元の人々だけが小さな町に残る、誰もいない真冬のことだ。テラスに面した扉から、その泥棒は侵入した。網戸に数センチ、カッターのような物で切られた形跡を叔父さんは見せてくれる。リビングに入ると、暖炉の周りをかなり漁ったらしい。「ほら、あの、黒い所。」叔父さんが指を指す向こうの暖炉の脇に、薄く指紋の跡が残っている。泥棒は、この部屋にあった古くからの物をごっぞり取って行ったそうだ。家具や、食器やセイラー・ボートの帆など。ある日パトロール隊から、叔父さんの所に電話があった。どうやら泥棒が入ったらしいと。テラスから入ったのに、メインのエントランスの扉が開きっぱなしだという。泥棒はそこから去ったのだろう。しかし、また戻って来る予定だったのか。エントランスの前には、家具が山積みにしてあったらしい。一度に持ち運びができなかったので置き去りにしておいたのが、異常な光景としてパトロール隊の目についたのだ。で、泥棒がすでに持ち去っていたのは、食器と帆だったそうだ。骨董屋に持って行って、高く買ってもらおうという魂胆だったのだろう。(実際、そんな物が高く売れるのかどうかは疑問だが。)ところが、持っていた食器にも、帆にも、ウチの家紋というか、紋章というか、ロゴマークみたいなものが付いていたからバレバレだ。骨董屋は泥棒に、「正直に言いたまえ。これは一体どこから持ってきたのかね?」と尋ねたことだろう。その時の泥棒のリアクションを見てみたかった。
そういえば、場所は代わって、フランスのノルマンディーにあるセカンド・ハウスに入った泥棒もいた。こちらの泥棒のリアクションはどうだったのだろう?泥棒が入ったとパリの親の所に連絡が入った時、私たち一同は関心した。窓から覗いただけでも、金目の物が無いと分かる家なのに、よくぞ入ったなあ、と。みんな口を合わせて、「一体何を盗んだの?っていうか、何か盗まれたの?っていうか、盗みたくなるような物があったのかしら?」と問い質した。「どうやら、テレビとHI-FIと電子レンジらしい」とのこと。パリの電話口で、私たちは返す言葉を失った。ノルマンディーでは、泥棒に入られた私たちを不憫に思って、警察も保険の人も近所の友人達も、一生懸命手続きをしてくれているのに。言える筈がない。「テレビとHI-FIと電子レンジですって?どれも壊れてるのよ。捨てるのに困っていたから、持ってってくれて丁度良かったわ」なんて。泥棒は、壊れていると知って、どんな顔をしたのだろうか?(by Anne)

グラーシュ
ディナータイム。「チェコ人叔父さん」におねだりして作ってもらったグラーシュ。パプリカの味がよくきいている。


2007年7月26日 (木)

エリーザベスとビッグ・ハウス

昨日は英語ができなくて本当に良かったなんて冗談を言ってみたが、実はそんな呑気なことは言ってられない。私がケープ・コッドを発つ時に、叔父の嫁の「カナダ人叔母さん」から『The Big House』(著:George Howe Colt)というベストセラーをプレゼントされた。英語の小説だ。アメリカの、あるサマーハウスにまつわる、100年の物語、とサブタイトル。まさか、と思って尋ねると、「まさか!」という返事。そりゃそうよね、ウチの話なわけないわよね。「でも、隣の入り江にあるお家の話なのよ」とカナダ人叔母さん。この辺りではどこの家も「ビッグ・ハウス」とあだ名が付くのだろうか。ともあれ、どうやらウチと似たような話なのだそうだ。エリーザベス物語を頭で繰り広げている私は、もっと色々知りたい病にかかり、即座にページをめくってみた。でも、う、う、…。叫びたいのに声が出ない、逃げたいのに走れない、そんな悪夢の感覚に襲われた。知りたいのに読めない。英語ができなくて良かったなんて思ったからバチが当たったんだ、と後悔したが、それよりも後悔すべきは英語をしっかり習得しなかったことだったと考えを改めた。結局、帰りの飛行機で10ページクリアしたのみ。まだ和訳はされていない。どうやら『The Big House』は、私の夏の宿題となりそうだ。
ところで、ウチの方の「ビック・ハウス」もその名の通り広い。でも程がある。叔母の旦那の「チェコ人叔父さん」は、この家は28部屋あると言いはっていたけど、実際私が両手の指を一本一本注意深く折って数えても、3往復はしなかった。いずれにしても廊下のどこにどんな部屋が隠れているのか分からない、ちょっとした迷路感覚を味わえるから、チェコ人叔父さんの数字も単純に「大げさな!」では片付けられない。だもんで、夏になると、親戚の家族やら、エリーザベスの友人の家族やらが集まって、それぞれの部屋を占領し、大掛かりな共同生活が始まるのである。朝は、それぞれ勝手に起きてきて、勝手に朝食を取る。ゲストが来ると必ず、頑固なエリーザベスもその味を認めた、「本物のコーヒー」とやらの在処を教えてくれる。ガスコンロの脇の棚の中だ。ランチもみんな勝手に、大きな冷蔵庫から、パンやマヨネーズ、ハムやレタス、昨夜の残り物などを取り出してサンドを作り、リビングやテラス、庭やビーチと、それぞれ好きな所へ持って行って食べる。エリーザベスは、庭にロング・チェアを出して、ビッグ・ハウスを背にして新聞を読みながらランチをしていた。でもこの夏、その姿は無かった。ランチタイムの庭が、少し寂しかった。午後はみんな、昼寝をしたり、本を読んだり、ビーチへ行って泳いだり、セイリングをしたり。4時半位から、食事当番はキッチンで準備を始め、6時から7時の間にディナーがスタートする。大勢で囲むテーブルは賑やかで、私や妹が居る時は、英語、フランス語、日本語、チェコ語が飛び交い、頭がこんがらがる。夕食後は、大酒飲みの「チェコ人叔父さん」と彼のお兄さんがテラスに出て、夜が更けるまで飲み続ける。彼らがロウソクとボトルを持ってテラスに出るのを見つけると、私も妹も、待ってました、とばかりにグラスを手に、彼らの後に次ぐ。テラスには、代わる代わる人が集まり、色んな話をして夜の徒然を楽しむ。そこで聞いたのが、チェコ人叔父さんの「28部屋」説。エエッ!と驚く私たちに、強いチェコなまりの英語で「do you know?」と続ける。「このビッグ・ハウスに、去年、泥棒が入ったんだよ」。つづく。(by Anne)

ランチのサンド
ランチにサンドを作って、私はテラスで食べるのが好き。普通のハムサンドと、ターキーのサンドに、ピクルスを添えて。ここに来るとクランベリー・ジュースが飲みたくなる。従姉の子供達もテラスが大好き。

2007年7月25日 (水)

エリーザベスと英語の壁

エリーザベス。享年91歳。ストロング・コーヒーとブルー・ジーンズが好きで、ビルケンシュトックのサンダルを履き、髪はピシッとシニヨンに纏めていた。甘くないとうもろこしにイチャモンをつけ、焼き加減の甘いムツには手を付けなかった。マルチーニ・ドライを嗜み、真夜中には、こっそりと冷蔵庫の扉を開き、リンツのチョコレートを濃厚なミルクと一緒に、誰にも知られずに食べる楽しみがあった。でも、シーツは指に残ったチョコレートの後だらけで、みんな知っている。毎日欠かさず7種類の新聞に隈無く目を通した。夏はケープ・コッドの家で過ごしていた。「ビッグ・ハウス」と名付けられたその家の庭には芝生が敷き詰められていて、その向こう広がる内海では、午後になると気晴らしに泳ぎ、セイラーボートの舵を握った。視力が衰えてからは、「ビッグ・ハウス」よりも、同じ敷地の奥にあるコテージ「リトル・ハウス」で、新聞ではなく、鳥を眺めて過ごすことが多くなった。若い頃は、背が高く、手足が長く、非常に細かった。ふくよかな女性が「美しい」とされていた頃だったから、コンプレックスを抱いていた。二十歳前、タイタニックのような船の上で、絵を描くことしか興味のない大富豪の息子と出会い、結婚を決める。しかし、早くに未亡人になると、結婚時代の話は一切しなくなった。しかし家の壁は、亡くなった夫の絵で埋め尽くされていた。1950年代から、急激に政治に興味を持ちはじめ、ボランティア活動を始めた。四人の子供が独り立ちするようになると、ボストン近郊にある宮殿のような家を売り払って、市内のダウンタウン、黒人街の小さなアパートへ越した。十分な教育を受けられていない子供達に、学校を開くために。黒人解放運動などにも参加。70年代まで積極的に活動した。その後もその頃に出会った友人たちと活動を続け、常に困っている人々を助け続けた。慈しみ深い人。それがエリーザベス。父の母で、私の祖母。葬儀の間、叔母や従姉のスピーチを聞いて、私の頭の中で所々しか分からない英語を繋ぎ合わせたら、まるでどこかの小説に出てくるような、こんなエリーザベス物語になった。素敵な私のお婆さん…。そう思ったら、涙がこみ上げてきた。私がもっと英語ができたら、もっといろんな話を聞きたかったのに、と悲しくなった。しかし、こんな所で泣き崩れては、ラテンの国じゃないんだから、場違いだ。一生懸命、一色懸命、私は涙を涙腺の奥に引っ込めた。甲斐あって、ひと雫もこぼれなかったが、そのかわりに、滝のような鼻水が留めどもなく流れてしまった。こんなことならさっさと泣いておけばよかったと後悔しながら、今度は流れ出る鼻水を引っ込めるのに必死になった。そのうち目眩がしてきて、しゃがみ込んでしまった。あー、まったく。ラテン育ちの私には感情のコントロールは難しすぎる。英語が少ししか分からなくて本当に良かった。もし、もっと分かっていたら、叔母や従姉の非感情的に語られる感動的なエリーザベス物語に、心打たれ過ぎて、涙を堪え過ぎて、鼻水の激流と戦い過ぎて、失神していたかもしれない。(by Anne)

エリーザベス
ボストン美術館にあるエリーザベスの肖像画。女優親子を足して二で割るっていうのも、濃いけど、イングリッド・バーグマンとイザベラ・ロッセリーニを足して二で割ったような感じかな。きれいだな。これを見て、さらに私の頭の中でのエリーザベス物語は膨らんだ。

2007年7月23日 (月)

エリーザベスとハネムーン

ごめんなさい。一日遅れてブログ、リスタート。昨日は、この梅雨よりも重たい時差ボケの体が、ウチのパソコンと同様、セットで機能しなかったから。ヘヘヘ。毎度の事ながら、アメリカ帰りの体内時計をアジャストするのは、経験者挙って言うように、大変苦労するのだ。夕方から夜の早めの時間が危険で、今も黒酢ドリンクを炭酸水で割って飲んで、「シャキッ!」を試みてる。(こういう眠い時や、疲れてた夕時に覿面なのは、黒酢ドリンクもそうだけど、粉状のクエン酸は特にスゴイ。でも酸が強いから胃を痛めはしないかと、やや、気になる)。
で、アメリカに行ってました。マサチューセッツ州のボストン近郊とケープコッドへ。ハネームーンです。ハネムーン…。結婚後の、一番最初にする、夫婦二人っきりの、スウィィィィートな、海外旅行、ってことよね。そう。計らずも、ハネムーン。私たちは、そんなスウィィィィートな海外旅行を企画する気はサラサラなかったのだが、ひょっこりハネムーン・プランナーが現れたものだから、あれよという間に時期も行き先もスケジュールも全部おまかせのコースに、乗せられていたのだった。プランナーの名は、エリーザベス。故人。ハネムーンは、アメリカへお葬式。要するに彼女のお葬式に参列するために、私たちは、結婚後初めて二人きりの海外旅行へと成田を発つことになったのだ。時期は、7月15日に行われる葬儀に合わせて、行き先は墓地のあるボストン近郊、宿泊はエリーザベスのケープコッドにあるサマーハウス、スケジュールは葬儀。でもそれ以外は特になく、サマーハウスのプライベートビーチでのんびり水遊び。お葬式に、もれなくハネムーンが付いていたなんて、ラッキー、故人に守られているのね、と私たちは好きに解釈したのだった。さて、いざ、7月15日。私たちは当然黒い服を着て墓地に現れた。ところが、参列しているのは、みんな黄色や青や白の服を着た人々。手には赤やピンクのバラ。黒は、日本から来た私たちと、フランスから来た妹だけ。黒い服を着て喪に服すのは日本。黒い服を着て悲しみにどっぷり浸るのはラテンの国。どうやらプロテスタントは違うようだ。あらら。お葬式というシリアスな場で、シリアスに身だしなみを整えたら、奇妙、というより逆に滑稽になってしまった。なぜなら、黒ずくめの私たちはまるでマフィアだったから。(by Anne)

セレモニー
ボストン近郊の墓地で、エリーザベスのお葬式。というより、ラフでフリースタイルのセレモニーだった。革新的なエリーザベスらしい。

2007年7月10日 (火)

7月22日にまた来てネ

ごめんなさい。しばし、お休みします。
引き続き7月22日から、「memo日和」を再開するので、
また来て下さいネ。
アンヌより

ミニバラ

2007年7月 9日 (月)

オ・ルヴォワール、ティア

(6月20日の続編)
さよなら、ティア。恋人と永久の別れのような悲しい気持ちになった。テァアの記念写真を撮りながら、呟いた。ごめんね、ごめんね、でももう付き合いきれないの。ごめんね、ごめんね。中はボロボロだし、外はボコボコだし、クーラーはたまにしかきいてくれないし、おまけにジージー変な音を出すんだもの。仕方ないよね。14万キロも走ったものね。疲れきって、偏屈じいじになっちゃったのね。よくがんばったね。でも、こっちも疲れちゃったのよ。高速を走る時は、それはそれは素敵だったわ。あの走り心地は一生忘れないから。ごめんね、ごめんね。ただ同然で買った、ウチのオンボロ車エグザンティアこと、ティアを、とうとう手放すことに決めたから、今日別れ話をしたのだった。今度の車は、また別のエグザンティアにしようかと相当迷った。でも結局聞き分けの良いドイツ車に乗り換えることにした。エグザンティアの前は、ランチアのイプシロンに乗っていたから、今回もエキセントリックな車の方が性に合うと思っていたけど、たまには息抜きして、面倒くさくない車で癒されるのも良いのではないか。ともあれ今回の別れは勉強になった。私も、ティアみたいに主人に愛想つかれちゃ大変だ。たまには、聞き分け良く「はい」と言っておこう。あー!でも、きっと、未練タラタラで、そのうちシトロエンのカタログを集め始めるかもしれないなぁ。(by Anne)
ティア
ボンネットの上のちょこんとのったロゴ。あーあ!

2007年7月 8日 (日)

2007.07.07

意味もなく添付してみた『おみくじかしわ』。
saboridayにくりかえし、
くりかえし、くりかえし、
くりかえし、クリックしちゃった。
(by Anne)

2007年7月 6日 (金)

目に美味しく心に優しいお料理

とは言え、映画の話です。気の早い話だけど、食欲の秋を準備する絶好の映画が晩夏に公開されます。『厨房で会いましょう』(監督:ミヒャエル・ホーフマン)にはその名から想像できる通り、グルメ・シネマ。とは言え、美味しいものを食べるシーンだけのお話ではありません。そもそも「グルメ」と言うと、当然イタリアかフランス映画でしょ、って思い込んで観たから、のっけから意表をつかれてオヤマァだった。聞こえるのはドイツ語ですから。じゃがいもとソーセージの国。洗練されたお料理なんて、あの、官能にはほど遠い堅くて真面目なドイツ人には作れないわよね、なんて侮辱的な考えを持っていた私がバカだった。お見それしました。主人公の、天才シェフと言われるグレゴアは、ある日平凡な主婦エデンと出会って、恋してしまう。でも彼は愛情の表現方法を知らない不器用な人。官能的な表現が出来るのは、唯一料理の世界だ。その味わいは舌に乗せた瞬間から、人々をうっとりさせる。「エロチック・キュイジーヌ」の達人なのだ。グレゴアがエデンへの思いを胸の内に秘めれば秘めるほど、素晴らしい料理に拍車がかかり、味わった人々は恍惚として、もはやテーブルマナーもそっちのけで欲情のままに、頂いちゃう。その可笑しいこと!その気持ち、分かるわぁ!ところが、うっとりばかりしてられない。物語は思わぬ方向へ展開してゆく。これにもオヤマァ。質の良い食事は、バランスに優れていて、健康な体と健全な心を培うのは周知の事実。だからグレゴアの料理が、人々の健全なエロティスムをかき立てるのも、納得できる。しばらくすると「エロチック・キュイジーヌ」を口にしたエデンの、妊娠が発覚する。長女を出産してから、ずっと待ち望んでいた事だった。健康な男の子。それは素晴らしいことだけど、仮に、障害のある子供だったとしても、生まれて来るパワーがあったのだから、大きな魔法を持っているに違いない。人々を幸せにするという魔法。グレゴアの料理のように。そんなことも考えさせられた、心温まる作品だった。今回のオススメのワインは、アウスレーゼ。レバーペーストをエデンが食べてるシーンで、彼女の目の前にある白ワインがアウスレーゼだったら、うーん!!たまらない!(by Anne)
厨房で会いましょう
『厨房で会いましょう』。監督:ミヒャエル・ホーフマン、公開:晩夏@Bunkamuraル・シネマ、配給:ビターズ・エンド。この映画の中でのお料理は、すべてミシュラン1つ星のシェフ、フランク・エーラーが手がけたそうです。現在は、5つ星ホテル『エルププリンツ』で料理長を務めているのだそう。なるほど、納得の品の数々。美味しそうなのは勿論、まるで抽象画のように美しい。以下、ご賞味下さい。(スティールの提供は、ワイン以外、すべてビーターズ・エンド社より。ありがとうございました。)

料理1

料理2

料理3

アウスレーゼ
やや甘めの白ワイン。ラインガウの「HATTENHEIMER NUSSBRUNNEN」の、アウスレーゼ(1999)。エノテカ広尾店にて、ちょっと奮発して5145円。リースリングの独特の香りがきいている。

2007年7月 4日 (水)

通じない日本語と分からない英語/2

(昨日の、つづき)。なぜなら、父がそんな目に合うのをよく見ていたからだ。彼が、アクセントが殆ど無い位の流暢な日本語で、「これは、いくら?」だとか、「この道は駅に続いてますか?それとも川の方?」だとか、普通に訊ねているのに、初対面の人はよく、慌てて「ノー、ノー、」と手と首を大きく横に振ったものだ。「や、だから、いくらですか?」父はまた日本語で訊ねる。その後、どんな展開になっていたか、はっきり覚えていないが、多分、人によって逃げて行ったり、そのままノーノー続けたり、あるいはものすごく感心されたりだったような。早く答えが聞きたいのに、話はどうしてそんなに日本語が堪能なのか、という質問に方向転換させられてしまうこともあったような。幼い私は、父の足にしがみつきながら相手を見上げ、「パパ、日本語で話したのにヘンなのー…」と思っていたのは鮮明に記憶に残っている。30年位前の、国際的とは言えない日本のことだ。多分、ブロンド&ブルーアイはアメリカ人で、言葉は英語しかない、と多くが思っていた頃。今ではテレビのお陰か、完全に外国人顔なのにネイティブな日本語を話す人にも慣れ、いちいち驚かなくなったし、どんな顔をしていようが普通に日本語で返答する人も当たり前に居るようになった。それだけ、日本に外国人が増え、外国人に慣れ、国際的になったのだろう。話を30年前に戻そう。どんな流暢な日本語を話しても、英語を話していると錯覚してしまう、といった時代の話。ウチの家族は、夏の間の一ヶ月あまりを軽井沢で過ごしていた。その頃、辺りのどこの別荘の庭にも青い蛍光灯がぶら下がっていた。虫が寄ってこないためだとか、殺すためだとか、なんとか。ところが、今度は虫が居なくなっては鳥の餌がなくなってしまう、すると鳥が居なくなってしまう、ってことになった。どうやら青い蛍光灯は外さなくてはいけないそうだよ、というウワサが別荘族の間に流れた頃、ウチの門の前に地元の軽トラックが停まって、中からキャップを被った男の人が出て来て、「すいませーん、いらっしゃいますかー?」と庭に入ってきた。作業員か環境保護関係者か。庭に居た父が、ムクッと木々の間から顔を出し、そのキャップ男に近づいた。「何でしょう?」。ところが、キャップ男は目の前に、予期せぬ大きなブロンド&ブルーアイが現れたから絶句した。どうしよう、言葉が通じない。でも、使命は果たさなくてはならない。そう思ったのか、やっと見つけた英単語を吐き出した。「バード!バード!」。父は、またか、と思っただろう。「鳥がどうしたんですか?大丈夫ですよ、日本語わかるんで」と言ってみた。キャップ男は「あー、うー」唸って、それからまた「バード!バード!」と繰り返した。このままだと鳥が死んじゃうんだ!という思いを込めて。それはもう、必死の思いだ。「や、だから、鳥がどうしたんです?」と聞き返す父。もうこれはダメだ、「バード」だけでは通じない、と思ったのか、今度は両腕をバタバタさせて「バード!バード!」とやりはじめた。鳥、鳥なんだよぉ!分かってくれぇ!キャップ男の額の汗が雫となって庭に落ち始めた。父が何を言おうと耳に入らない様子。顔を真っ赤にしてバタバタ「バード」を続けている。その一部始終を家の中からこっそり母は見ていた。可笑しくて仕方がなく、このままずっと見ていたかったそうだが、あまりにもキャップ男が気の毒だったので、庭に登場することにしたそうな。当時流行のサボをつっかけて、笑いをこらえながら「すみませーん、どうかしました?」と。黒髪&黒目の日本人が出て来て、さぞキャップ男はホッとしたことだろう。やっと日本語が通じる、と。(by Anne)
バード
「バード!バード!」鳥、鳥なんだよぉ!分かってくれぇ!


2007年7月 3日 (火)

通じない日本語と分からない英語/1

先週ケガしたので、近所の外科へ駆け込んだ。右足のかかとで左足の親指の爪を剥がしてしまったからだ。と、言っても、痛みに弱い私でも怪我した時点で案外ヘッチャラだったし、オキシドールとイソジンとガーゼで手当はウチでも十分だった筈。でも、お医者さまに診てもらうほうが安心だし、近所の外科には未だ一度も行ったことがなかったし、万が一の時に備えて下見をしとこうという気持ちが、ネットで検索している最中に芽生えて、駅付近の外科に駆け込んだ。正確には、駆け込んだ、を装って。待合室で主人の名字が呼ばれて、数秒後に「ああ、そうだ、私だ」とソファーから立ち上がった。日本に五万と居る極平凡な名字に、いまだに慣れず、うっすら痒い思いをしながら、診察室のドアをノックした。「失礼します」と中に入ると、眼鏡をかけた、優しそうな丸っこい子狸風の先生が、立っていた。私は一瞬、エッ、と驚いた。子狸だったからではない。通常日本のお医者様とは、机に向かったまま患者を入れて、冷たい銀淵眼鏡の端でチラッとこちらを見るだけで、後は目も合わせてくれない、というのが主流なのかと思っていたからだ。この先生は立っている。出迎えて下さっているに近い。私が、「エッ!」ってしたとほぼ同時位に、子狸先生も、エッ、と一瞬驚いたようなリアクションだった。私が驚いたことにだろうか、それとも、私が大きいからだろうか。ひょっとしたら、外国人だと思われたからだろうか?どうやらそれらしいと思い始めたのは、足を診察してもらってからだ。先生は丁寧にピンセットで剥がれかけた爪を観察して、細かく説明して下さった。が、分かりづらい。「これは、もう少しすると、乾いて…、いや、ドライになりますから、消毒…、いや、インフェクションしないように、ヒューミッドにならないようにね、しとくんで、オーケーですから。爪のサイクルはロングタイムね、28日。明日、えっと、トゥモローモーニング、オーケー?もう一回ね、ワンスアゲインね、これ、チェンジしますんでね。」と、綺麗に親指を包んだガーゼを指差した。私は「ドライ」という言葉を耳にした段階で、ヤバイと思って、必死で必要以上に何度も、長い返答をした。勿論、日本語で。それも、できるだけ丁寧な日本語で。どうか、分かって、私は日本人です…。努力の甲斐なく、「ワンスアゲイン、チェンジ」で終わった診察。帰り際に「グッバイ」と言われなかっただけでも、昔に比べれば国際的になった日本を喜んで良いのかも。いやいや、子狸先生は、良い先生です。患者さんに一生懸命理解してもらおうとしたわけですから。でもそれが、日本語が出来て英語が苦手な私相手でなければ、なお、良かったのに。妙に申し訳ない気持ちで家路についた。そして思った。日本語がメチャメチャ堪能だった、ブロンド&ブルーアイの、今は亡き父の事を。つづく。(by Anne)
親指
ガーゼも薄手になり、もうそろそろ、大丈夫、えっと、オーケーだ。

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