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2008年9月 3日 (水)

12人の怒れる男/ミハイルコフ版

デジタル放送用のテレビを買ったら、画面の向こう側がメチャメチャ生っぽくて、気持ちが悪くなった話は昨日した通り。実際、肉眼で見ている人の顔や光景よりも、細かく観えてしまう気がするのは、まだこの新型テレビに慣れていない私だけだろうか?なんだか、昔カッコつけで読んでいた、ヴィリリオやボードリヤール達が論じていたポストモダンの考えを、今、実感した気になった。(そういえば、ボードリヤールの『シミュラークルとシミュラシオン』は映画『マトリックス』のバイブルだった筈。)もし、画面の向こう側の世界の方が現実よりもリアルに感じるような世界になったら、っていうか、もうけっこうそうだし、一部の人達は120%そうだけど、その実態の無さがもたらす危険に対抗するために、もう一度自分自身と向き合って、一個人の自覚と感覚に働きかけなければならなくなるだろう、と思うこの頃…。なんて、にわか格安思想を綴るつもりはないですけど。けど、けど、先日、映画『12人の怒れる男』(ニキータ・ミハイルコフ監督)を観て、そこでもまた、自覚を持って個人的な感性で物事を理解することの大切さを目の当たりにしたのだった。1957年にベルリン国際映画祭で金熊賞に輝いたアメリカの名作(シドニー・ルメット監督)のリメイクにチャレンジしたミハイルコフだが、もう、チャレンジとかいう枠を完全に超えてしまっている。物語は、市民から選ばれた12人の陪審員の論議で構成されていて、彼らの評決によって、殺人の容疑をかけられている青年の有罪か無罪が決定されるのだ。有罪となれば、青年に未来はない。そこでみんなが法律や裁判官のジャッジをそのまま鵜呑みにする中で、たった一人が無罪を主張する。ドラマはそこから展開するのだ。オリジナルで黒人が青年となっているところを本作品ではチェチェン人の青年に置き換え、舞台を真夏のニューヨークから真冬のモスクワに移し、かつてアメリカが抱えていた人種問題を、現代のロシアが抱える大きな闇に塗り替えた、その勇気と器用さに、私は脱帽した。これほどのロシア批判は、監督がロシアの国歌作詞者の息子であり、プチーン現首相とも交流がなければできなかったかもしれない。なお、オリジナルがストイックな社会派であるのに対して、本作品はおしゃべりでユーモア満載。極めてロシア的だと、ロシア語ができる人が言って、上映中ケラケラ笑っていた。ハリウッドがネタ不足でミニシアター系秀作のリメイクばかりしているけれど、そこにはスターを揃えて膨大な興行利益を得るため以外の必要性はないんじゃないか。だから一部例外以外、多くのリメイク作品は、しょぼくなってしまう。リメイクする必要性とはこの事よ、と叫びたい、ミハイルコフ版『12人の怒れる男』。傑作だ!(by Anne)

12人の怒れる男
『12人の怒れる男』(監督:ニキータ・ミハイルコフ、配給:ヘキサゴン・ピクチャーズ)
http://www.12-movie.com/

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